クローズアップ藝大では、国谷裕子理事による教授たちへのインタビューを通じ、藝大をより深く掘り下げていきます。東京藝大の唯一無二を知り、読者とともに様々にそれぞれに思いを巡らすジャーナリズム。月に一回のペースでお届けします。
第五回は、音楽学部器楽科(ピアノ)教授で、ソリストそして伴奏者として国際的に活躍しているピアニストの江口玲先生。极速体育_篮球比分直播-app下载元年7月、レッスン室にてお話を伺いました。
江口先生のレッスン室には2台のグランドピアノがやや窮屈そうに少しずらして並べられていました。ずらして並んでいるのはスペースの関係か先生が学生の指の動きを観やすくするためなのだろうかと思っていたら先生から「ピアノの重さで床がへっこんじゃって……だからずらしておいているんですよ」と茶目っ気のある笑顔で言われました。
江口先生の経歴は異色です。藝大音楽学部の附属高校に入られた時目指していたのは作曲家で大学も作曲科を卒業されています。大学時代に次第にピアニストになりたいという気持が強くなり大学卒業後ジュリアード音楽院のピアノ科で学ばれました。ピアノを本格的に学ぶのが遅かったのですが、今は海外と日本を行き来しながら演奏活動をされ、また伴奏者としても高く評価されています。どのようにピアニストとしてのキャリアを開いたのか、なぜソリストだけでなく伴奏にもこだわっていらっしゃるのかお聞きしたいと思いました。
国谷
先生のご家庭は音楽とはさほど関係がなかったようですが、叔母さまのところにオルガンがあって、幼稚園の代わりにヤマハ音楽教室に通われていたと。
江口
はい。うちの父がちょっと変わっていて、家の中で、人が聴かないようなものを聴いていたんです。例えば、宴会芸としてシューベルトの「菩提樹」をドイツ語で歌いたがったり。家には歌曲やらワルツやらのLPレコードがありました。私はそれを見ているのが好きで、聴いているというより見ているのが。
国谷
レコードが回っているのを見るのが(笑)?
江口
そう、大好きだったんです。でも回っている間は聴いているじゃないですか。今でも洗濯機とか回っているのを見ているのが好きなんですよ(笑)。
国谷
藝大に入りたいとご自身で思ってらしたのですか? 親が勝手にレールを引いてしまったわけでなく?
江口
親のレールは全くなかったですね。逆に父は、ピアノの音がうるさいから早く辞めてくれっていう感じでした。辞めろと言われたら何か悔しくて。それで作曲をやろうと思いました。
国谷
中学の時に作曲をやろうと思ったんですか?
江口
そうですね。「男の子がピアノなんて絶対に無理よ」っていろんな人から言われて。あの当時、女の子のほうがずっと優秀な子が多くて、「男がピアノなんか選んでも将来食べて行けないでしょう」って。
国谷
生計を立てられないからですか。
江口
作曲だったら、歌謡曲でも何か1つ当たれば(笑)。じゃあ作曲でもやってみればって言われて。
国谷
しかし、それで藝大音楽学部附属音楽高等学校(以下「藝高」)を目指されるとは、すごいですね。
江口
いや、親も子も世間知らずでした。先生に相談したら「冗談でしょう?」と。 藝高の作曲科の受験をするなら、こんな本で勉強して、この知識を得ないと駄目ということも全く知らなかったんです。先生も近所の方でしたし。 藝高の二次試験で、ピアノで伴奏をつける科目があって、本当は教科書に則って、メロディーを見て即興で伴奏を組み立てて弾かなくてはいけなかったんです。だけど私はそれを知らなかったので、「このメロディーにはショパン風の伴奏を付けてみよう」という感じで。先生方は理論の知識を見たかったのに、自分は試験で楽しく遊んでしまった。
国谷
それでも結果は合格でした。人生分からないものですね。その時はピアノ科でなく作曲科への入学ですものね。
江口
分からないものです。人よりちょっとできるのは作曲と思い、藝高に進みましたが、この学校に入ってみたら、なんのことはない、一番ビリだったっていう(笑)。でも、当時の先生が知識を根気強く叩き込んでくださって、「絶対無理」と言われながら何とか現役で藝大の音楽学部作曲科に入りました。ただ、自分の中のどこかで、ピアノを弾きたい、演奏したいと思っていましたね。
国谷
作曲理論の訓練を受けずに藝高に入学して、大変でしたか?
江口
そうですね。辛かったことは辛かったです。皆が難しいことをやっている中で自分は一から始めているような状態でしたから。辛かったですけど、根っから楽観的だからか、大変だった記憶はあまりないんですよ。いつも何とかなるんじゃないかなって。
国谷
たいていの人は高校生の頃に何になりたいって言っていても、本当になりたいかどうか分からない。大学を出ても自分は何をやりたいのか分からない。ずっと迷う人って多いと思いますが、江口先生の場合は、作曲科に進みつつも、やはり「ピアノを弾きたい」と思うようになった。それは、大学に入ってからですか?
江口
そうですね。大学に入ってからですね。というのは、田舎育ちだったものですから、高校に入るまではピアノ以外の楽器はほとんど見たことがない。それが、ここの学校に来たら、いきなり周りにいろんな楽器を使う人がいて、これは面白いと思って観察して、「一緒に弾かせて」って。 うちは男兄弟3人で、私はその真ん中でした。お恥ずかしい話、「お前はピアノの月謝を払っているからお小遣いはやらない」という感じだったんです。実際はもらっていましたけれど、それでも楽譜を手に入れることは、なかなかできなかったんです。だから楽譜がなくても自分で聴いて、それをそのまま弾いていた。遊びとして楽しみながらですけどね。 それが藝高に来て、初めて見る楽器がたくさんあって、「へーこういう音がするんだ」って見ていたら、ピアノ伴奏譜をくれて、「一緒に弾こう」って。大学ではそれが楽しくて、楽しくて。結局、それがきっかけで、ピアノのほうへ進むことになっていきました。
国谷
「一緒に弾かせて」と言える環境があって、ご自身の可能性が広がり、江口先生の豊かな感性や技術が磨かれていったわけですね。
江口
いや。自分が嫌なものは全然やらずに来てしまった。幸い先生方が、私が練習しないので諦めてくださいました。
国谷
勇気付けられますよね。こういう方が一流のピアニストになるとは。
江口
だから学生のお手本にはなれないですよ。学生にレッスンする時は、葛藤があります。
国谷
葛藤ですか?
江口
学生はみな優秀なんです。自分は基礎的な練習をやらないで身に付けてきたものが、彼らに本当に合っているのだろうかと疑問に感じるんです。家内もピアニストですが、「あなたの指使いは誰にも真似できない」って言われますし。基礎的な練習など、積み重ねてきたものが同じであれば、それを元に教えればいい。でも、自分は普通の道を歩いてこなかったから、皆の期待とは全く異なる方向からアドバイスしている気がするんですね。学生たちは面白がってくれますけれども。
国谷
子どもの骨格でピアノを弾くのと、大人になってから弾くのとでは、弾き方が変わる。身体が変化するたびに弾き方を変えなくてはいけないと先生はおしゃっています。学生一人一人、体格も違うし、感じ方も違うでしょうし、ピアノを教えるのはとても難しいでしょうね。
江口
難しいです。手の大きさ、指の形、やってきたこと、積み重ねてきたものが皆それぞれ違う。それを絶対否定することはできない。「あなたのやり方は全部間違っているよ」なんて。それでその人はうまくなってきたんだから。ただ、そこから先に伸びたいと思った時に、本人が行き詰まっているのであれば、何か新しいことを試してみなければそこから抜け出せない。その手伝いだったらやってあげられるよ、とは時々言うんですけどね。手のことに関しても、自分の手にはこれが一番いいけれど、それがあなたの手に合っているかどうかはわからない。でも、少なくとも自分が好きだったピアニストたちは皆こうやって弾いてたよねって。最終的には自分で決めないといけないというところですね。
国谷
藝大で助手をされていた時に、当時16歳だったヴァイオリニストの五嶋みどりさんの伴奏をしました。江口先生は24歳。どのように感じたのでしょうか。
江口
五嶋みどりさんは、その頃から素晴らしい演奏家でした。そして、五嶋みどりさんの恩師であるドロシー?ディレイ先生との出会いで、自分の人生の全てが変わりました。 その当時、ディレイ先生はジュリアード音楽院の教員で、「自分のスタジオにピアニストがほしいから、ジュリアード音楽院に来なさい」と声をかけてくださった。 といっても、自分は藝大作曲科を卒業したものの、ピアノをしっかり勉強したことがない。今から自分がピアノ科へ進み、しかもジュリアード音楽院に行くなんてとんでもないと。藝大のピアノの先生に相談しても、ジュリアード音楽院に合格するのは難しいだろうと言われましたしね。でも、それでもやってみようと動き出しました。
国谷
名教育者と言われるドロシー?ディレイ先生に出会い、その先生の勧めで、ジュリアード音楽院に入学。しかも、ピアノ科に進むことになったのですね。
江口
先生に出会わなければ、アメリカに行くことも、ジュリアード音楽院に行くことも、ピアニストになることもなかったですね。
国谷
アメリカの生活やジュリアード音楽院はどうでしたか
江口
刺激的でした。色々と経験して、それが今の糧になっていますね。ニューヨークではブロードウェイミュージカルのオーディション伴奏をやったりしました。オーディションでは、モデルのように完璧な人が落ちて、個性的な人が合格したりして。審査員の求めているものって面白いなと感じました。その他、教会でピアノを弾いたりもしましたね。讃美歌はほとんど覚えました。その後、教会で弾いたバッハのワンフレーズが、メンデルスゾーンの曲に出てきたりして、「あ! これはバッハだ」と分かります。ほとんどの人は元の讃美歌を知らない。かけがえのない経験だったと後から実感しました。
国谷
しかも、あの教会の響きの中で弾かれているのですから、なかなかできない経験ですよね。そして、すばらしい演奏家や演奏家の卵の方々と一緒に学ばれて、いい演奏、いい音楽を山のように聴かれたのではありませんか?
江口
ジュリアード音楽院には藝大にはいないタイプのピアニストがいっぱいいるんですよ。豊かな感性をもって素晴らしい音で非常に美しいショパンの「ノクターン」を弾く。それなのに、ちょっと難しいことをやると「え? どうしちゃったの?」というくらいガタガタになる。基本的なテクニックが身に付いていない。こういう人って絶対に藝大にはいない。その逆はいても。 その時に思ったんですよね。ジュリアード音楽院で、こういう人材を受け入れているってすごいなと。自分たちが音楽家としてどうあるべきかがここにあると。
国谷
音楽家というのは感性というか、テクニックではない部分が大切ということでしょうか。
江口
そう。両方ですね。作曲家が考えていたことを再現するために必要なのがテクニック。だから、切り離して考えてはいけないし、情感や感情とかを表現するためにテクニックは必要なんです。でも、テクニックだけ持っていても何にもならならい。 以前、声楽の先生と、このことについて話したことがあるのですが、声楽科は歌を始めるのが遅いじゃないですか。身体や声ができてきた高校ぐらいから始める。一方、ピアノは2歳、3歳から楽器に触れている。そんな人たちが同じ大学を目指す。声楽科は始めた時期が遅い分、しっかりした意識をもって言葉の意味を理解して音楽的解釈ができた上で、声をのせていく。一方で、ピアノは、幼い頃から学んできたテクニックが先にきてしまって、表現や解釈が未熟でも隠されてしまう。だから、本来の音楽家としてどうあるべきかを意識せずにきてしまう。
国谷
楽器によって勉強を始めるタイミングが異なるし、アメリカと日本の教育の違いもあるのでしょうか。
江口
日本に戻ってきた時、「こんなこともできないの?」と思った瞬間が何度かありました。感性の問題でね。向こうじゃ小学生でも自分で歌うように演奏して表現できるのに、日本の大学生はそれができないのとびっくりしました。
国谷
なぜそういう表現ができないのでしょうか?
江口
ピアノでは小さい時にコンクールを目指して1つの曲を仕上げて行くんですが、どんなに小さくても大人みたいな演奏が求められる。弦楽器であれば小さい楽器でできるけれど、ピアノは手が小さくてもこの楽器でやらなくてはいけない。そこでしっかりした音を出すにはこうだというところから始まってしまって。源となるものが育っていないんですよね。 小さい頃に家の中でどんなものを聴いていたかは重要です。例えばウィーンの人がウィーンのワルツってこういうものだって思うのは、それしか聴いていないから。でもそれを知らない人は楽譜を見てもウィーンのワルツにはならない。 どんなものを聴いて育ってきたかの部分の大きさを、おそらく育てる側がわかっていない。 この間、学生にどんな演奏を聴くの?って訊いたら、日本のどこどこコンクールの何位になった人の演奏をYouTubeで聴きますって。いやいや。彼が上手いのは知ってるけれど、この曲はラフマニノフが自分で録音しているからそれを聴いてごらんって。感性を磨くというか、その感性を磨く材料となるものを得てきてない気がします。
国谷
それは大きな問題ですね。
江口
声楽の人たちは自分の意思で歌いたいと思って、こういう歌が好き、こういうふうに歌いたいと思って声楽科に入ってくるじゃないですか。でもピアノもヴァイオリンも、もしかしたら、そういうものがなくても通り過ぎて来れたのかなっていうことを時々感じることがありますね。
国谷
今、音楽教育を子どもに受けさせたいと思っている親たちへのアドバイスがあるとすると?
江口
とにかく小さい時から本当にいろんなもの、いい音楽を聴かせて。最初に耳に入ってきて自分が好きと思ったものって、将来につながると思ってなくても、必ずどこかで返ってきます。そこの部分をとにかく育ててほしい。誰々さんより上手に弾かなきゃじゃなくて。
>>?次のページ 今ままでのピアニスト江口玲が完全に消えた瞬間。 人生の中で一番大きな出来事だった |
---|